2011年3月27日日曜日

相変わらず

あんまり新聞もニュースも見ていないので今回の地震の正式な呼び方がイマイチわからない。
"東日本大震災"でだいたいいいのでしょうか。
ウチの読売新聞では"東日本巨大地震"となっていますが。

そんな状態ですけど、死者が1万人を超したことくらいはわかっています。

東日本大震災に被災された方々へ心からお見舞い申し上げます。
そして、犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致します。
今生きている私達一人ひとりが、手を動かしていること、足を動かしていること、思いを寄せていること・・・その一つ一つが、確かな一歩であることを信じています。


地震直後、まさか阪神大震災の死者を上回るような大震災になるなんて、思いもしなかった。
岩手宮城内陸地震は経験していないけど、その復興の様子は近いところで見てきたし、阪神大震災や中越地震等の様子もテレビや新聞で見てきた。
被災者の話も直に聞いたこともある。
小学生の頃宮城県沖地震で図書室の本がばらばらと落ちてくる中で頭を抱えたり、道路の縁石が浮き上がっていくのを見たりした。
今回の地震も、その一つだと思っていた。
それは、その日はまだ水が出ていたからかもしれない。
でも、家族が集まり、ラジオをつけると、「そんなに・・・」と絶句してしまった。
だってラジオのアナウンサーは『陸前高田市は津波で壊滅状態です・・・』と、それを繰り返すから。
他の街も津波で大打撃を受けているって。
でも、壊滅状態って、何なのよ?
この日は雪も降って、日が長くなったのを感じ始めた頃ではあったけど、だから早く暗くなっちゃった。
そんなこともあってなのか、とにかくラジオでは『壊滅状態です』を繰り返すばっかりだった。

でも、この時点でも、まさか死者が1万人を超すなんてまだ考えていなかった。


もう一回戻る。

2011年3月11日(金)14:46
畑のバイト中だった。
ハウスの中でちぢみ菜を収穫していた。
すぐ山になっていて、そこにいるキジが鳴いた。
私は「サンタ(そこで飼っている犬)、また追っかけてるのかな」と言ったら、ハウスのオーナーが「地震だ」と言って携帯電話を取り出した。
そしてすぐだった。グラグラっときて、なんか畑が割れていくんじゃないかと思うくらいゆらゆらと回るように揺れたような気がする。地響きもドドドドっていうかギギギギっていうか、普通もう収まるだろうと思う頃にまたグラグラと揺れる。長かった。
でも、おじさんもその時はたいしたことないって思ったんだろうね。「休憩すっぺ」って小屋に行くことにした。
私は、息子が風邪で学校を休んでいるから、ばあちゃんがまた用足しでいないかもしれないし、一応様子を見てくると言って車に乗った。
帰る道はなんとなく静かだった。私だけが急いでるのかなぁと思うほど車もそれほど走ってはいなかったし。
家に帰ると息子はゲームをしてたし、ばあちゃんもいて「ずいぶん揺れたなぁ」と、そんな会話だけした。
皿もコップも壊れていないということなので、ひとまず畑に戻ることにした。
学校を通るのでちょっと背伸びをして見たら、校庭に先生の姿が見えたので、立ち寄ることにした。
既にお母さん達が数名駐車場にいる。子ども達は校庭に避難していた。
泣いている子もいるので背中をさすってあげた。
校長先生が「まだ地震が続きますが、そういうものです。落ち着いて行動して」と言い、保護者とともに急遽下校することになった。

私はさっきからずっと携帯をちらちら見ていた。娘が通っている保育園からメールがくるかもしれないと思って。その時点でメールはまだきていなかったけど、あとで時間などを見ると『迎えに来て下さい』メールが既に送られていたのかな。もう通信の異常が始まっていたんだと思う。
とにかく、再び畑に戻ることにした。
15:25頃だったと思う。
おじさんは「もう携帯通じないな。悪いけど今日はこれで止めにするから。もう休憩室めちゃめちゃだから。家の方にも行って見ないと。」と言う。
なんか、ちょっと「もしかしてすごい地震?」と思い始める。
「じゃあ保育園に行かせてもらいます。」と保育園に向かう。
町を通る時信号機が消えているのを見て「やっぱり大きい地震なんだ」と思い、ガラスが割れている戸を見て「ヤバイよ」と思い始める。
他の車の走り方を見ても、なんとなく焦っているような気がするし。

保育園では昼寝の終わり頃に地震だったから、子ども達はパジャマのままで園バスに避難していた。
娘は怖がっている風でもなく、先生に抱っこされながら連れてこられた。
「いっぱい地震だったから、布団にもぐった」と教えてくれた。
落ち着いているので帰りにもう一度学校に寄ることにした。
息子の担任の先生がいたので「何か必要なものありますか?」ときいてみたが、「今最後の児童を送りに行ったところなので、大丈夫です」と答えていた。
その時石巻の大学に通っている息子さんからメールがきたみたいで「良かった~」とほっとされていたが、あとでラジオやテレビで石巻の様子を知った時は、本当にほっとされただろうなぁと思う。
学校の向かいにある学童に行くと職員と子どもたちが外にいた。
念の為建物内には入らないのだろう。でも雪も降っているし寒そうなので「毛布持ってくるね」と言って、一旦家に帰ってから毛布を届けた。

そんなこんなで夕方、家族全員揃い、電話・電気が止まっていることがわかり、出来るだけの準備をしたら寝ようと、それぞれ動く。
ろうそくの灯で夕食の準備をしながら、ラジオで津波がきたことを知り、陸前高田市が壊滅的状態であることを聞く。
電池とか、もう少し買っておいた方が良さそうだなぁと思い、18:00頃、ローソンに行った。
駐車場が、もう満杯だったし、店の中も20人位はレジに並び、それ以上に人がいた。
真っ暗だったので電灯を持ってくれば良かったなぁと思いながら電池売り場に行くと、もう普通の電池は売り切れていた。
これはヤバイと思いながら農協(Aコープ)に行くと危ないからと閉めるところだった。その先の小さなスーパーでとりあえず電池を買って家に帰ることにした。

余震も何回もあったし、停電しているし、ラジオでは陸前高田が・・・と繰り返すので、これは大きな地震なんだ、ものすごい被害が出ているんだ、とは理解した。
でも、我が家はLPガスだし、この時はまだ水が出ていたので夕食もごく普通に食べ、おまけにお風呂にも入った。家のお風呂は薪なので水さえくれば大丈夫なのだ。
だから理解と実感は、全くベツモノで、「まぁ、明日になればだいたいわかるだろうから」などと思いながら寝た。大きな余震が何回もあったけど、子ども達もぐっすり寝ていたし。私に似て本能が弱いみたい、などと思いながら。

けど、あの地響きみたいなのはいつもの地震とはずいぶん違うなぁと、それだけは感じていた。

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